グローバル企業のトップの話とか宮沢賢治の「なめとこ山の熊」の話

(注意:たぶん過去最長のエントリーで、しかもまとまりがない)

グローバル企業のトップ

 先日、
グローバル企業のトップはみんな猛禽類(まつひろのガレージライフ)
http://matsuhiro.blogspot.jp/2012/05/blog-post.html
というページを感慨深く読んだ。曰く、

グローバル企業の上級幹部になるような連中は猛禽類の肉食獣なんです。

で、特徴として挙げられているのが、

  • 恐ろしく弁舌が立つ
  • 弱みを見せない
  • プレッシャーに強い
  • 異常に働く
  • 右手で握手をし、左手で背中から刺す

そうだよなぁー。自分は"グローバル企業の上級幹部"に該当する人に直接会ったことはないのだけれど、仕事上の経験に照らすと容易に想像がつく。要するにタフな人たち。負けないためにはこれは必要なことなんだよな。

宮沢賢治の「なめとこ山の熊」の話

 昨日、車の中でラジオをつけたら、NHKで朗読をやっていて、それが熊をとる猟師の話だった。途中からだったのだが、最後に猟師が熊にやられて死んだ後に、熊が集まって葬式のようなことをやるという情景が非常に印象的で、最後に「なめとこ山の熊」というタイトルだけアナウンスされたのを手がかりに調べたら、宮沢賢治の作品だった。
ちょっと長いけど、Wikipediaのあらすじを引用する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%81%E3%81%A8%E3%81%93%E5%B1%B1%E3%81%AE%E7%86%8A

なめとこ山の麓に小十郎という熊撃ちの名人がいた。小十郎には家族を養えるほどの畑はなく[1]、山林は政府のものとなって伐採が禁じられ、里では職にありつけず、熊を撃つしか家族を養う道がなかった。

小十郎は、一家七人を養うために、熊を撃ちまくったが、本当は熊に申し訳ない気持ちでいっぱいであった。彼は熊撃ちの時は自信に満ちた名人だったが、殺した熊に言い訳を聞かせ、次に生まれる時には熊になるなよと熊に語りかける。そして、熊の肝と皮を担いで帰る時はみるかげもなく、ぐんなりした風で山を降りてゆく。 

なめとこ山の熊にとって、撃ち殺されるのはもちろん迷惑だったが、熊はそんな小十郎に一種の親近感を抱き、いつも高いところから眺めていた。小十郎は時おり、熊の言葉さえ分かる気さえした。彼が、なめとこ山で道に迷って、熊の親子に出会った時に、小熊と母熊の会話を理解してしまい、胸がいっぱいになって、こっそり戻った時があった。

山では気高い小十郎も、なめとこ山の熊が肝と毛皮という商品に変わってしまい、町の金物屋に売りに行くときはみじめだった。小十郎の毛皮は、ずるい荒物屋によって2枚で2円という安値がつけられる。生活がかかっている小十郎は、それが不当に安いことを分かっていて、仕方なく手放してしまうのであった。

ある日、小十郎は、木に登っている熊に出会い、鉄砲を構えた。 鉄砲をつきつけられた熊は、観念し、木から下りると、小十郎に自分が殺されなければいけない理由を尋ねた。小十郎は、最後には安く買い叩かれてしまう熊の末路を教え、気の毒に思っていることを告げた。さらに(本当は熊撃ちをやめて)草の実でも食べて死ぬならそれでも良いような気がする、と本音を漏らした。すると熊は、二年間し残した仕事を済ませたら、二年目に小十郎の家の前で、死んでいてやるから、胆でも皮でもあげるからと約束した。小十郎はそれを聞くと切なくなって、見逃してやった。ところが二年後、熊は小十郎の家にやって来て、約束どおり死んでしまった。小十郎は熊を見て、思わず拝むようにした。

一月、小十郎は母に、「水に入る(猟を始める儀式)」が嫌になったと弱音をはいた。それから白沢から峰を越えたところで猟を始めた。するとまもなく不意打ちで熊が現れ、小十郎は撃ち損じて熊に襲われてしまった。小十郎は、お前を殺すつもりはなかったという声を聞き、青い火を見て死を悟り、熊どもゆるせと心でつぶやいた。

三日後、小十郎のために数多くの熊が集い、盛大な弔いが行われている場面で物語が終わる。

(青空文庫でも読める。:http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1939_18755.html)
こういう話を「グローバル企業のトップ」的な人はどう読むんだろうと思った。たぶん笑う話にしかならないだろうな。それがだめだというつもりは全然ない。これ読んでしんみりしているようでは生き残れないような気がする。案外privateでは、こういうのを読んでたりするのかも知れないが。

対比

自分の中には会社員としての立場と普通の自由な人間としての立場があって、いろいろに使い分けて生活していて、前者の立場は「グローバル・・・」に近い位置だ。望む望まないに関わらず、そう在らざるを得ない。後者の立場は「なめとこ山」的なものに共感したりする。それはそれだけの話であってしょうがないんだが、二つの話の間には相当なギャップがあって、何だかなぁと思う。
両方の立場を内包した自分がすべきことは何なんだろう。

(たぶん)関連のあるはなしとして、
内田先生のブログにあった、下記記事が気になっている。
「利益誘導教育の蹉跌」
http://blog.tatsuru.com/2012/05/11_1204.php
曰く、

彼らが「学校教育の目的は次世代を担うことのできる成熟した市民を育成することである」という本義に気づくまで、いったい私たちはあとどれくらいの時間を無為のうちに過ごさなければならないのだろう。

なんだかまとまりがないけれど、忘れないうちに書いておくことにした。